2020.8.12 | 夏休み①
帰りの電車は海の中
ざざ、ざざ、と耳の奥でまだ波が鳴いている。
ぎりぎりまで遊んでぎりぎりに飛び乗った電車でもなお、まだ海の気配がそばにあった。
ベタつく髪も湿った肌も、夏の海は全部シャワーで洗い流してきたはずだ。それなのに、たまに身じろぎするたび、髪や衣服の含んだ空気から潮のにおいがする。
がたん、ごとん。がたん。
「……。ねーちゃん?」
規則正しいレールの揺れに乗って、隣の頭がこくりこくりと跳ねていた。
ハッとして顔を覗きこむと、ねーちゃんは眠っているのか両目をつむって、そのくせむずがるように眉間にしわを寄せている。
帰りの電車に腰を下ろした瞬間、今までのはしゃぎっぷりが嘘みたいに指一本動かすのすらおっくうだった。すぐ隣に座るはずの姉は近いようで遠く、疲れ切った体を叱咤して、なんとか肩を抱いて引き寄せる。
うまい具合に俺の右肩にもたれたねーちゃんは、それでやっと安らかな寝息をたてた。
「もしかして、寝ちゃった?」
俺の左側からマサがひそやかな小声で話しかけてくるから、そうぽい、と努めて軽くうなずく。ねーちゃんは明らかにぐっすり沈んでいて、多少の声では起きそうにもないけれど。
マサは俺越しにねーちゃんの様子を覗きこもうとして、膝に乗せた大荷物が邪魔らしく、苦笑だけして深く座り直した。
出かけよりも大きく重くなった荷物はきっと、濡れた着替えのせいだ。
「そんなに楽しかったのかな」
「たぶん」
はしゃぎ疲れて眠るなんて、まるで子どもみたいだな。
「ふふ、俺も楽しかったな。カズイもそうだろ、顔に出てたよ」
「どんな顔だよ……」
「鏡見なって」
たしかに楽しい海だった。
左側にマサ、右側にねーちゃんがいて。
答えているのかいないのか曖昧に笑って、マサの視線は窓の外へ。
外国人の祖父譲りだという色白の肌は、夕陽を抜きにして、出かけよりもほんのり赤くなっている。
(……こう色が白いと大変だな)
色素が薄いと紫外線に弱いとか、なんとか。
たぶんこのあとヒリヒリするよとなにが楽しいのか笑っていたけど、今のところ平気な顔をしていた。ほとんど常に羽織っていたパーカーは、そこそこにお役目を果たしたらしい。
「ねぇカズイ、チャンスじゃない? 頭とか撫でといたら?」
「へ?」
移りゆく景色ばかりを見つめていたマサが、突然こちらを振り返る。
頭って、誰の。聞くまでもなくマサの目線は、俺の右肩にもたれるねーちゃんに向かっていた。
「……。なんでだよ……」
「だってほら、こんな機会なかなかないし」
悪戯っぽく細められた目は、肌と同じく色素の薄い緑色をしている。海のようというにはずいぶんと蠱惑的だ。
「同じ大学目指してるんだし、ご利益あるかもよ。頭を撫でたら、頭がよくなったりして」
「お地蔵さんか?」
お地蔵さんならいいか、いやよくないな。
髪を撫でるか否か、一瞬のうちにものすごい処理速度で悩んだけれど、結局結論はでなかった。
「はあ。あーもう……」
隣の体重を一身に受けた右側が妙に火照って、熱い。文句を言ってやろうにも、相手は夢のなかへ逃げてしまった。
電車でまぬけ面晒して寝るのはさすがに恥ずかしかろうと、武士の情けでキャップ帽をかぶせてやる。んんと嫌がるような疎ましがるような声で抵抗された。
本当は誰にも見せたくないし、誰にも渡したくない――なんて思ってても言えない。ただのシスコンだ。
「なあ、マサ?」
「……。ん?」
「俺さぁ、今日楽しかったよ。おまえは全部わかってるんだろうけど」
顔に出てたと言われると、なんだか居心地が悪い。でもそれをさり気なく隠すためにキャップに手を伸ばしても、今はもうない。
「あー……わかってるんだろうけど、俺はねーちゃんもマサもその、好、好きだから――」
「……」
「マサ?」
ずる、と崩れた姿勢が寄りかかってくるのを、ねーちゃんと逆の肩で受け止める。まさか。まさか。
「ん……」
――寝てる。
寝てる! 俺がマジメに話してるのに!?
「……。あほ」
思いっきり脱力して、行き場のない感情。
最悪だ。あほ。おたんこなす。
文句を言おうにも、相手はそろって夢のなか。日常へ帰る車内で、ふたりだけはまるでまだあの波に揺れているみたいだ。
大きな太陽が海に飲み込まれていくのを、まぶしい気持ちで見ていた。
もうすぐ夜がやってくる。