2020.8.14 | 夏休み②
渡りに船が二艘
おとうさんじゃない。
声にならない声がそうつぶやくのがわかって、疑問が確信に変わる。
なるほど、迷子だ。そしてどうやら自分は父親と間違えられたらしいと合点がいった。
「……う」
つい、うめき声が漏れる。子どもは苦手だ。
ふるふると細かく震えながらも見上げてくる視線は、人違いを咎められるのだと怯えている。
それならさっさと逃げてしまえばいいものを、こちらのアクションを一途に待っているのが健気でいじらしくて――子どものそういうところがやたらに怖かった。
「……、……」
二の句も継げずにいるうちに、その大きな瞳いっぱいにみるみる水がたまっていく。
一秒が一分、一分が一生のような時間を、お互い無言のまま見つめあうけど。
「――おとうさん、どこぉ……!」
「うわ! な、……なっ」
とうとう泣き出した子どもを前に、半歩後ずさる。
泣くなと言いかけて、いや命令形はよくないなと妙なストッパーが働き、愚かにも結局意味のある単語にならずに終わった。
それより親は。親はどこだ。屋台通りは人でごった返すほどなのに、子どもの泣き声に反応する大人は誰ひとりいない。
もしや俺以外に見えないのではと錯覚するほど、俺たちの周りをぽっかりあけて人波が流れていく。
「……っ」
綿あめが溶けたか舐めたかして、ベタベタになった手。
小さいくせに尋常じゃない力で引っ張られると、なんだかもうダメだった。
子どもはかわいい。でも苦手だ。
かわいいなと思っても、いざ声をかけると途端警戒されるのが身に染みてわかるからだ。怖い思いをさせたくない。
どうしよう。どうしたら?
『――スバルくん、怖い顔してたんじゃない?』
ブルスクさながらの脳内に浮かび上がってきた文字は、あいつからのメッセージだった。
あれはたしかバイト中の彼女を待つさなか、妙な客が俺を見てすぐ逃げていったとき。すわあいつ狙いの痴漢かと、つい警戒が顔に出てしまったときだったと思う。
「怖い顔、か……」
おそるおそる自分の顔に触れてみると、眉間に寄ったしわ。
笑い下手な口角。かたい頬。
「……はは」
笑みになりそこなった唇が強張っていた。
なるほど、これはこわい。そしてなんだか怒っているみたいだ。
ぱしん。
気合いを入れて自分の両頬を叩く。
両手のひらで顔を覆い隠してぐにゃぐにゃに揉んだあと、これでもかと頬っぺたを引っ張ってほぐしながら、その場にしゃがんで子どもと背丈を合わせた。
一気に距離を詰めてきた俺を、子どもは食い入るように見つめて。
「変なかお……」
「じゃあ、もう怖くないか?」
びしょ濡れの頬っぺたのまま、子どもの顔がへにゃっと溶けた。あっぷっぷの掛け声に合わせて変顔して見せる遊びがあったけど、今まさにそんな感じだ。
気が楽になると心も軽くて、強引にほぐした唇は自然な弧を描く。
(……。あいつに報告したいな……)
今日何度目かわからない気づき。こんなことでよかったのか。気楽に接するべきだったのか。
怖がって壁を張られてしまうと思いながら、子どもが怖いと壁を張っていたのは俺のほうだったのだと。
「――あれ、灰崎くん?」
子どもとふたり隔離された世界から、一気に現実へと袖を引き戻される。
呼ばれて見上げると、珍しく見下ろす新鮮な視線とかち合う。普段と装いが違うので一瞬戸惑うけれど、夜色の浴衣の先にいたのは納西だった。
「なに変顔してんの、子連れで。ていうかその子誰? ……弟、なわけないか。ひとりっ子だもんね」
「そんな話したか?」
「したした」
記憶にないが。
「迷子だよ。……親が近くにいないみたいで」
「ふーん?」
新手の大人が現れてビビったらしく、子どもは俺の肩にサッと隠れた。
「ウワッさすが灰崎くん、懐かれてる。迷子を助けるなんてヒーローみたいだねっ」
「嫌味か……?」
「えー本心だよ、本心。……でもま、総合案内に連れて行ったほうがいいと思うけど」
あっち、と納西の白い指先を辿ると、社務所への道筋を示す看板がそこかしこにある。
白いペンキが日光にあてられてひび割れ、矢印の先も見えづらいほどボロくて掠れているけど。でもきっとそれだ。
「ね、きみもそうしたいよね? ――お父さん、きっと待ってるよ」
噛んで含めるような口調のアルトはいったいどんな声帯をしているのか、砂糖菓子みたいに甘く。
そんな優しそうな納西と俺を見比べて、結局、子どもはジッと俺をうかがった。
「……。行くか」
うんと深く頷いた。元気がいい。
しゃがんだ体勢のまま、子どもを肩にかつぐ。これなら、肩車なら、もし道中父親とすれ違っても向こうから見つけてくれるだろう。
「ほら、あっちだって。行こうよ」
こいつに言わせれば『大抵のことはネットでわかる』らしいけれど、スマホを片手に先陣を切る姿が今日はやけに頼もしい。
あのまま俺ひとりだったら、子どもに気をとられて冷静に考えられなかったかもしれない。
「……悪いな納西、助かっ――」
「仕方ないからついて行ってあげる。灰崎くんに任せてたら、迷子がふたりになりそうだし」
「あ?」
せっかく感心したのに、こいつは!
「おにいちゃん……ケンカしてるの?」
漏れ聞こえた小声だったのに、大声で横っ面を叩かれたような気になる。
おそるおそる様子を見ると、会ってすぐの頃と同じ顔の子ども。せっかく仲良くなれそうだったのに、振り出しに戻るなんて嫌だった。
「ま、また怖い顔してたか!? ケンカじゃないからなこれは、その……俺たち、仲良しだから。大丈夫だから」
なにを必死に弁明しているんだ、俺は。
焦るほど、言えば言うほど嘘っぽい気がするのに、言い訳が止まらない。
どこかでワッと歓声が沸き立つ。祭囃子が賑やかに響く。喧騒に掻き消されないよう大声に早口になるところを、ゆるい砂糖菓子が間に割って入ってきた。
「ふうん、へぇ。そうなんだ。俺たち仲良しだったんだ?」
「う」
「都合がいいなー」
もしや根に持ってたのか。そりゃ俺が悪い。
でもこういうとき、咄嗟に言い返せないのも悔しい。
「今日はあの子に会えるかもしれないって期待してたのに。……あは、とんだお荷物抱えちゃった」
いよいよぐうの音も出ずに黙ってしまうと、納西の唇は美しい弧を描く。
自信満々なやつの下駄が、カラカラと笑っていた。