特別ショートストーリー

2020-10-02 | 特別ショートストーリー

ビタースウィート・マイ・ハート(part2)

業務はもとより、ヴァーテックスの空気にもだいぶ慣れてきた。
あれから、あの青年と顔を合わせる機会はなかった。フロウのほうも、相変わらず稚拙な嫌がらせで仕事に穴をあけてくる女性構成員たちへの不快感で、彼を思い出す余裕はなかった。


「はぁまったく…低レベルすぎ! 言いたいことがあるなら面と向かって堂々と言いなさいってのよ!」


頭を切り替えるために一旦持ち場を離れた。食堂に寄ってお茶でも飲むつもりで歩いていたのだが、差し掛かった廊下でフロウは足を止めた。


「な、なによコレ!」


フロウの膝丈ほどはあるゴミの山が、道を塞いでいた。
破れた雑誌に割れていびつなガラス片、サビた何かのバッジ。本当にただのゴミだ。


「なんで廊下の真ん中にこんなものが…」


見なかったふりをしたかったが、育ちの良さがここでも災いして、景観が損なわれて汚らしいさまは無視しがたいほど苦痛だった。


「……んもうっ!」


フロウは来た道を引き返してゴミ袋を調達すると、また戻ってゴミを手当たり次第に袋へ詰め込んだ。


「オイ!! なにしてるか!?」
「!?」


最後のゴミを詰め込んだときに、その怒声は響き渡った。
見ると、ほど近い構成員用の個室から、巨躯のバリアントが身を乗り出してきたところだった。
バリアントはフロウの手にするゴミ袋を見た瞬間、突然両腕を振り上げ、鋭い爪を構えた。


「なにかお前! オレのもん、触るするな!」
「きゃあっ!?」


訳も分からず飛び掛かられ、フロウは悲鳴を上げて身を丸めた。
だが一瞬経っても、あの鋭い爪から想像したような斬撃はやってこない。飛び掛かり際に轟いていた足音も途切れた。


意を決して、恐る恐る顔をあげたフロウは、そこで目を見開く。


「…え…」


目の前に広い背中があった。銀髪に白い衣服を装った後ろ姿。顔は見えなくても、あの日会った青年だとすぐに分かった。
腰に携えていた剣を今は抜いて、その切っ先を目の前のバリアントへと向けている。


「いい加減、その脊椎でものを考える知能の低さをどうにかしろ。クリンチ」
「アァ? お前、出しゃばり! どかん、ならコロス!」
「出しゃばらせているのはお前だ。相手に事情を聞くという発想も持てないのか」
「知らん! このメス、オレの取った! ジジョ―、カンケーない!」


クリンチと呼ばれたバリアントの長い爪が、フロウの手にするゴミ袋を指し示した。


「こっ…これはゴミが山積みだったから! 片づけようとしただけよ!?」
「ハァ~!? バカにするか!? ゴミ違う! 全部オレの!」
「あれが!? し、信じらんない……」
「部屋! 置く場所、作るしてた! できるまで、ソコ置いただけ!」


たどたどしい言葉使いで理解しづらかったが、どうやらこのガラクタを部屋に飾るために整理整頓をしている最中だった、と言っているらしかった。


「わ、わかったわよ。返すわよ…!」


手渡すのが恐ろしくてクリンチの目の前にゴミ袋を置き、また剣を構える彼の背中へと隠れる。
ゴミ袋を拾い上げたクリンチは「ケッ!」と吐き捨てて、自分の部屋に引っ込んで行った。


「怪我はない?」


剣を鞘へ収めながら彼が言う。腰を抜かしそうになってはいたが傷は一つもなかったのでフロウは頷いた。


(あれが“ニアスカイの魔物”なのね…)


新人のフロウの耳にも、クリンチの噂はすぐに届いて知っていた。
“ニアスカイの魔物”とは、もともとはヒーロー側がつけた異名だが、クリンチの獣じみた危険性を如実に表していることから組織内でも広く知られていったらしい。
敵も味方も無差別に襲う凶暴なバリアント。クリンチを封じることができるとすればボスくらいで、幹部に匹敵する者ですら無事では済まされない。


クリンチの危険性を改めて実感すればするほど、気付けばフロウは目の前の青年を食い入るように見つめていた。


彼はそうしたことが当然であるように、事も無げな様子でいる。彼からすれば、行きがかり上介入したに過ぎないのかもしれない。けれど、果たしてフロウのような――まだ知り合いとすら呼べない他人のために、そんな危険を冒すことができるだろうか。


「…どうかした? やっぱりどこか怪我を」
「あ、いいえ! 違うんですの…その、助けてくださって本当にありがとうございました」


実際、その場に居合わせてしまった構成員たちがみな早々に退散していくのを視界の端で見た。
そんな中で彼ひとりが行動を起こした。フロウを庇うために危険を顧みずクリンチと対峙した。


その事実はフロウの胸のうちの何かを揺るがした。温かなものが沁みわたっていくようでもあり、溢れ出るようでもあった。


頭の中が、一瞬で彼に占められていた。


「クリンチには気を付けたほうがいい。奴のせいで危うく再起不能になりかけた構成員だっているんだ」
「え、ええ…まさかゴミを片づけただけで殺されかけるとは思いませんでしたわ…」
「またクリンチに絡まれたら、すぐに助けを呼んで。といっても、ここにクリンチに立ち向かえる気概のある奴はいないから、僕でよければ頼ってくれて構わない」
「いい…んですの?」
「ああ」


ふと彼が微笑した。本当に微かだったが、フロウにとっては初めて見る彼の笑顔だった。


「クリンチのことに関わらず、困ったことがあったら言ってくれ。じゃあ僕はこれで」
「あ、お待ちください!」


去って行こうとする彼を慌てて引き止める。どうしても聞いておきたいことがあった。


「あの、ぜひお名前を教えてくださいませ!」
「ああ…そう言えばまだ名乗っていなかったっけ。言ったつもりになっていたよ、すまない」


今度は苦笑した表情を浮かべて、彼は言った。


「僕はオックスだ。君は?」
「オックス様……私はフロウと申します! どうぞ以後お見知りおきくださいませ!」
「ああ、こちらこそよろしく。それじゃあ」


軽く手を挙げて、オックスは去って行った。遠のく後ろ姿が見えなくなるまで、フロウはいつまでも見送った。


出会ったときはどこか近寄りがたさを感じた彼の、今見た微かな笑顔がずっと頭を離れなかった。